読書感想文
ちょっと思うところあって童話作品を読み返しているこの夏です。サン=テグジュペリの『星の王子さま』、福永令三『クレヨン王国のパトロール隊長』。どちらも再読でしたが、この「少年が大人に反発する」という共通テーマを持つ(?)2冊を、続けて読んでみました。
今は割と気になる存在として蔵書としているこの2冊なんですが、実は『星の王子さま』も『クレヨン王国』シリーズも、子どものころ好きだった本、というわけではないんです。
『星の王子さま』は、子どもの頃に買ってもらって読んでみて、漠然と「好きじゃない」という感想を抱き、ずっと書庫に放り込んでいました。数年前、これを原案とした舞台の宣伝美術を担当したのをきっかけに、ずいぶん久しぶりに読み返してみたものです。
『クレヨン王国』の方は、単に読まず嫌いで、なんとなく子どもっぽいものなのかな、と敬遠してしまって読んでいなかったのでした。大人になってから、アニメの『夢のクレヨン王国』をきっかけに読んでみて、割と自分のイラスト制作なんかに大きな影響を与えることになるんですけど、いや、読まず嫌いというのはもったいないですね。
前述のとおり、この『星の王子さま』と『クレヨン王国のパトロール隊長』には、「大人への反発」という共通のテーマがあります。『星の王子さま』の「ぼく」は、自身の描いたウワバミの絵を理解してくれなかった「大人」という存在を否定し、理解してくれた王子さまをかけがえのない存在として描きます。王子さまが特別な存在と思った薔薇の花を賛美して、数多咲く地球の薔薇には「ちっとも特別じゃない」と毒づきます。なんという排他的な子どもの態度でしょう!(好きな人、怒らないでくださいね)『パトロール隊長』のノブオは、お互いに憎しみを引き出し合う関係になってしまった右田先生(=大人)から逃げ出すことで物語が始まります。ノブオは、クレヨン王国のパトロール隊長という責務(=大人)を通じて、いろいろなことに気づいていきます。
この2冊を続けて読んだとき、子どもが大人に理解を欲するとき、その要求は無邪気・理不尽・我が儘で、理屈はないんだ、逆にそれこそが子どもということなんだろうな、と思いました。そして、そういった子どもの要求に嫌気がさしたことが、『星の王子さま』を好きになれなかった理由なんじゃないかな、と。だって「ぼく」も「王子さま」も、ことあるごとに「大人はこう言う……」「大人はこう決めつける……」と、自身の好き嫌いを言うばかりで、そのための歩み寄りのようなことを一切してくれやしないんですもの。これでは子ども同士でも仲良くなれない。一方で『パトロール隊長』の方も、当時子どもに自然教育をする塾の講師だった福永先生の文体には、教育者として諭すような雰囲気があります。これもちょっと見方を変えると、似たような一方的な主張なのかもしれません。しかし、自身の投影でもあるんでしょうか、大人である右田先生の非も、子どものノブオと同等の非とするような描き方に、何か自省のようなものを感じました。大人も子どもも、意固地になって相手を認めないままでは、いい関係になれないということですかねえ。王子さまが薔薇を特別な存在だと思ったけれど一緒にいられなかったように……。
今回そんな「大人と子どもがどーのこーの」という目で読んでしまいましたが、『星の王子さま』はサン=テグジュペリの挿絵も含めた素敵な創造性や、終盤のなんとも言えない寂しい表現(内藤濯さんの訳もいいんでしょうか)が素晴らしいし、『パトロール隊長』も「子ども向け作品はハッピーであれ」という福永先生がこんなにも切迫した哀しみを描いたことで生まれるシリアスな世界観が大好きです。『クレヨン王国』シリーズは、鳥類・虫・山野草に詳しくなるほど、その情景が頭に浮かぶようになり、魅力が増してくるように思えます。どちらも、その世界に身を置くことが心地よく、再読してみて更に思い入れのある2冊となったのでした。
・ ・ ・ ・ ・
読書感想文って、いつになっても、こう、なんか、うまく書けないというか。
ブログなんかをガシガシ書くようになって、多少文章力も増してるかと挑戦してみましたが、この「なんかうまくできなかったなー」って毎回思っちゃうところが、この宿題が嫌いだった要因なんだろうな。
さて、大物も片付いたし、あとは新学期まであそびましょ(・∀・)
今は割と気になる存在として蔵書としているこの2冊なんですが、実は『星の王子さま』も『クレヨン王国』シリーズも、子どものころ好きだった本、というわけではないんです。
『星の王子さま』は、子どもの頃に買ってもらって読んでみて、漠然と「好きじゃない」という感想を抱き、ずっと書庫に放り込んでいました。数年前、これを原案とした舞台の宣伝美術を担当したのをきっかけに、ずいぶん久しぶりに読み返してみたものです。
『クレヨン王国』の方は、単に読まず嫌いで、なんとなく子どもっぽいものなのかな、と敬遠してしまって読んでいなかったのでした。大人になってから、アニメの『夢のクレヨン王国』をきっかけに読んでみて、割と自分のイラスト制作なんかに大きな影響を与えることになるんですけど、いや、読まず嫌いというのはもったいないですね。
前述のとおり、この『星の王子さま』と『クレヨン王国のパトロール隊長』には、「大人への反発」という共通のテーマがあります。『星の王子さま』の「ぼく」は、自身の描いたウワバミの絵を理解してくれなかった「大人」という存在を否定し、理解してくれた王子さまをかけがえのない存在として描きます。王子さまが特別な存在と思った薔薇の花を賛美して、数多咲く地球の薔薇には「ちっとも特別じゃない」と毒づきます。なんという排他的な子どもの態度でしょう!(好きな人、怒らないでくださいね)『パトロール隊長』のノブオは、お互いに憎しみを引き出し合う関係になってしまった右田先生(=大人)から逃げ出すことで物語が始まります。ノブオは、クレヨン王国のパトロール隊長という責務(=大人)を通じて、いろいろなことに気づいていきます。
この2冊を続けて読んだとき、子どもが大人に理解を欲するとき、その要求は無邪気・理不尽・我が儘で、理屈はないんだ、逆にそれこそが子どもということなんだろうな、と思いました。そして、そういった子どもの要求に嫌気がさしたことが、『星の王子さま』を好きになれなかった理由なんじゃないかな、と。だって「ぼく」も「王子さま」も、ことあるごとに「大人はこう言う……」「大人はこう決めつける……」と、自身の好き嫌いを言うばかりで、そのための歩み寄りのようなことを一切してくれやしないんですもの。これでは子ども同士でも仲良くなれない。一方で『パトロール隊長』の方も、当時子どもに自然教育をする塾の講師だった福永先生の文体には、教育者として諭すような雰囲気があります。これもちょっと見方を変えると、似たような一方的な主張なのかもしれません。しかし、自身の投影でもあるんでしょうか、大人である右田先生の非も、子どものノブオと同等の非とするような描き方に、何か自省のようなものを感じました。大人も子どもも、意固地になって相手を認めないままでは、いい関係になれないということですかねえ。王子さまが薔薇を特別な存在だと思ったけれど一緒にいられなかったように……。
今回そんな「大人と子どもがどーのこーの」という目で読んでしまいましたが、『星の王子さま』はサン=テグジュペリの挿絵も含めた素敵な創造性や、終盤のなんとも言えない寂しい表現(内藤濯さんの訳もいいんでしょうか)が素晴らしいし、『パトロール隊長』も「子ども向け作品はハッピーであれ」という福永先生がこんなにも切迫した哀しみを描いたことで生まれるシリアスな世界観が大好きです。『クレヨン王国』シリーズは、鳥類・虫・山野草に詳しくなるほど、その情景が頭に浮かぶようになり、魅力が増してくるように思えます。どちらも、その世界に身を置くことが心地よく、再読してみて更に思い入れのある2冊となったのでした。
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読書感想文って、いつになっても、こう、なんか、うまく書けないというか。
ブログなんかをガシガシ書くようになって、多少文章力も増してるかと挑戦してみましたが、この「なんかうまくできなかったなー」って毎回思っちゃうところが、この宿題が嫌いだった要因なんだろうな。
さて、大物も片付いたし、あとは新学期まであそびましょ(・∀・)